動画をたまたま発見した
YouTubeで偶然「人は何故ゴミのように捨てられる「長文」を書いてしまうのか?-西野亮廣」という動画を発見しました。この動画タイトルを見たとき、「私のことだ!」とこの動画を見ずにはいられなかったです。
動画の概要
動画の内容は、「なぜ人は読まれもしない長文を書いてしまうか?」ということに対して、西野さんの見解を語っているものです。西野さんは自分のサロンメンバーが、おもしろくないつかみやボケを挟む人、お経のような長文を書く人に対して、あなたに許されているプレゼン時間があって、あなたに許されているふざけてもいい許容範囲があるから、それらはやめた方がいいと促します。しかしながら、そういう人はなくなることはなかったので、西野さんは自分の指摘は芯を喰ってないと気づき、アプローチの仕方を変えることにします。そこで始めたのは、相手のことを否定するのではなく、褒めること。お経のような長文を書いていること、おもしろくもないボケをつかみにする人たちを肯定するという逆のことをやってみることにしました。そして、肯定したうえで、もっとこういう頑張り方をしたらもっと良くなるんじゃないかというように付け加えるというアドバイスの仕方を試してみることにしたといいます。西野さんは長文を書くような人の気持ちになるために、長文を書く人を自分に憑依させ、イタコのように考えてみたところあることに気づきました。それは長文を書く人自身は、メッセージを伝えることを成功にしている人を参考にしていると気づきます。メッセージを伝えるのを上手い人は、メッセージを伝える前につかみやボケを入れてくるといいます。これに対し西野さんは、成功している人をまねるのは正しいといいますが、重要なのはその成功している人のどこをまねるべきかだと語ります。多くの成功者が出している文章は、その人を待ち望んでいる人が待つ城で出しているもので、あなたを誰も望まない場所で長々しく話しているわけではないと指摘します。つまり、自分の城ではない場所で話すときは、あなた自身を望んでいる人ばかりでないのだから、手短に話す必要があるということです。成功者のマネをするのはいいことだけど、マネをするのはその成功者が自分の城の外に出たときの端的に言う話し方なのだと締めくくります。
一理あると納得する部分がある
たしかに、望んでもいない自分にとって興味のない人の話や文章はなかなか入ってきません。西野さんの意見はとても理解できると思います。テレビや劇場、単独ライブなどの場所で活躍していた西野さんだからこそ、そういう自分が求めらえている需要に応える働きをすることの大切さに気づけるのではないかと考えました。
西野さんに言わせれば、信頼のない無名のうちは誰もが「城の外」での発信ということになるのかもしれません。自分の持ち時間が決まっているテレビや仕事のプレゼンの場だったらそういう対応が必要になってくるのだと思います。
自由に発信できる場所ではそれほど長さに気にする必要はないのではないか?
しかしながら、やっぱりブログだとか動画だとか自由に発信できる場所では、そういうお経のようなとかおもしろくないボケのつかみだとかも、一切制限する必要はないんじゃないかと私は考えます。
たしかにネットでキーワードを検索してヒットとするブログが長文だったら読む気が起らないと思うし、自分の興味のない来賓者の長い長いありがたいお話も勘弁してくれよと思うので、西野さんの言いたいことはよく理解できます。
西野さんのおっしゃることはわかるのですが、ただ自由に発信できる場所ではそれがたとえ人に城の外だと認識される場所だったとしても、自由に長文だろうが、つまらないボケを挟もうが、書きたいように話したいように行えばいいなじゃないかなと感じます。
城の外でのルールを城の中に持ち込むことで…
西野さんは自分のサロンの中で助言してみたと動画では話してましたが、個人のサロンだとか、YouTubeのチャンネルだとか、ツイキャス配信だとかそういう個人が自由に作れる小さなコミュニティの中でさえ、外のルールを持ち込ませようとしているということはそこでの自由を失わさせるものだと思います。せっかく自分の価値観が合う人たちが緊密に交流できる場所を城として作ったのに、結局城の外のルールを城壁内にも持ち込んでしまっては、まったく意味をなさないからです。自分にとってより気楽な城の中に活動の場を移したつもりが、コミュニティが大きくなりすぎて、ルールや規制ばかり増えて、外と内が同じになっては本末転倒です。もっとこうした方がいいという助言が、もっと独自のものであれば、意味は出てくるのだと思うのですが、外の世界と同じ価値観での締め付けは暮らしづらくなると考えるのです。
多くに求められていない場所であっても
テレビの一人ひとりの与えられた時間では活躍できなかった芸人が時間の縛りのないYouTubeに移行して大成功を収めた事例が数多くあります。彼らはYouTubeを始めるということに需要があった人ばかりではないと思います。実力が備わっていたから成功をおさめたということは理由の一つになると思うのですが、最初から需要があったゆえ成功したという点においてはあてはまらないこともあります。
要するに、城の外だからという理由で、その人に許容される範囲の長さで発信する必要はないと考えるのです。YouTubeはテレビや大人数が参加するプレゼンとは違い、誰でも自由にどれだけの時間でも発信することができる場所なので、西野さんの唱える見解とは合致しないかもしれません。それだったら、長文の記事を投稿するブログはどんなんでしょうか。検索にひかかったときにはたしかに興味がなければ許容できず「長っ!」と思うことが多いかもしれないですけど、やはりYouTubeなどと同様に自由に発信できる場所であることには変わりないと考えるので、投稿する記事がたとえお経のような長文であっても、誰にも価値のない捨てられる長文だったとしても好きに書けばいいのではないかと思っています。
優れた人の観点、優れてない人の観点
その人に信頼があるから話を聞くとか、その人に信頼があるから文章を読むということはたしかに多いです。私もこれまでの発言から頭が良くて一般の人とは異なった視点を持っているという信頼があったから西野さんの動画を見たという経緯があります。
ただ、話し手や書き手のことをまったく知らなくても文章を聞いたり読んだりすることも私はよくあるので、西野さんの言うことに全てに同意はできないなと感じました。
長すぎて伝わらないこともありますが、長いからこそたくさんのことが伝わることもあります。そこにもとから発信者が有名か無名か信頼があるかないかは必ずしも必要な要素とは限らないと考えます。
西野さんはお笑い芸人としても成功しているので、おそらくお笑いの観点が一般人より優れすぎていて、メッセージを伝えるために行ったつかみがおもしろいかおもしろくないかについて事前に判断できる能力が高いのだと考えます。それゆえ笑いの部分により厳しくそういうボケやつかみが冗長的だとすぐに判断ができるんだろうと想像します。私だったら、話の中にそういうボケやつかみを入れられる人はユーモアがあって余裕がある人だと考えるので、より話をマイルドににぎやかな雰囲気の中聞くことができるので、それがおもしろいかおもしろくないかはあまり関係のない部分だと考えています。
そもそも言いたいことを短くまとめるって難しいし、ただただ長いことは受け取る側にはわからない理由もある
伝えたいことや話したいことがあるなら全部発信してもいいんじゃないでしょうか。長くてそれが伝わらなくてもいいんです。伝わるか伝わらないかじゃなくて自分の言葉を組み立ててそれで自分が納得できればいいんだと私は思います。それに短く端的に言いたいことをまとめて発信するということは、頭がいいからできることだと私は思います。私なんかは普段から中身のない長文記事を書いていることからもわかる通り要約するということが苦手ですから。一文もだらだら長いです。わかっててもまとめて短く書くということはできないです。
私が捨てられる長文を書いてしまうのは、やはり、そのときに考えていることや思っていることを文章にして吐き出したいという気持ちがあるからです。うじうじ長い時間考えてしまう私のような性格だと、長い文章を書くことで自分の思っていることを吐き出せたような気がしてスッキリするのです。
まとめ
ゆえに、「何故ゴミのように捨てられる「長文」を書いているのか」の答えは、そもそも頭のもやもやをすべて捨てることを前提に書いている文章だからです。人に読まれることの前に長文になろうがまとめて考えを吐き出すことが第一になってるからそういうものが生まれるのです。
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